戦国BASARA的リアル戦国武将

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猿飛佐助(武田軍)

真田幸村が配下、真田忍隊隊長の猿飛佐助。
このサイトで取り上げるべきかどうか悩みましたが、一応。(一応って・・・)

と言うのも、猿飛佐助は忍者としては超有名なキャラですが、あくまでもキャラはキャラ。
猿飛佐助は架空の人物ですw

元々は大正時代に流行した小説「真田十勇士」の登場人物で、真田幸村と共に活躍し、大阪夏の陣の後は、真田幸村と共に薩摩に生き延びたことになっています。
(史実では、真田幸村は大阪夏の陣で討死。←異説アリ)

▼真田十勇士のメンバー
猿飛佐助(さるとび さすけ)
霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)
三好清海入道(みよし せいかい にゅうどう)
三好伊三入道(みよし いさ にゅうどう)
穴山小介(小助)(あなやま こすけ)
由利鎌之助(ゆり かまのすけ)
筧十蔵(かけい じゅうぞう)
海野六郎(うんの ろくろう)
根津甚八(ねづ じんぱち)
望月六郎(もちづき ろくろう)


猿飛佐助にはモデルがいたという説もありますが、本当のところは分かっていないようです。

また、猿飛佐助は戸隠の出身ですが、忍者としての流派は甲賀流。
(対して、徳川に仕えた忍者・服部半蔵は伊賀流)
これは、真田幸村が主とした豊臣家が、甲賀忍軍を擁していたからだと言われています。


俺様、忍なのに目立ちすぎじゃね?」と本人にも自覚があるように(?)「おまえ本当に忍者かーッ!」とツッコみたくなる佐助ですが、まぁ存在自体がフィクションなので勘弁してあげてくださいw
posted by M at 02:18 | Comment(1) | 武田軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

真田幸村(武田軍)

真田幸村(本名:真田信繁)は、伊達政宗と同じ1567年生まれ。
戦国BASARAのキャラクター設定では、伊達政宗より年下という設定のようですが、実際、伊達政宗が1567年9月5日生まれと判明しているのに対し、真田幸村は誕生日が正確に分かっていないため、伊達政宗より真田幸村のほうが若干お兄ちゃんという可能性もあります。

さて。まず最初に戦国BASARAファンには驚愕の事実。

戦国BASARA内では「ぅおやかたさむわぁぁあ!」と絶叫するのが真田幸村の特徴。
というかもはや「お館様こと武田信玄なしで幸村は語れない」というほど信玄を敬愛しまくっている真田幸村ですが・・・

実は真田幸村は武田信玄に仕えたことはないです。

というか、1573年、幸村が6歳のときに武田信玄は亡くなってますから^^;

もっと言えば、戦国BASARA英雄外伝では「長篠の戦いで武田信玄が負傷。真田幸村がリベンジのため本能寺へ・・・」というストーリーがありますが(伊達政宗の外伝ストーリーより)長篠の戦いで武田軍が織田軍に敗北したのは史実どおり。
ただし、このときの武田家当主は信玄の息子である武田勝頼です。(だって長篠の戦いって1575年だもん。しかも幸村はまだ8歳)


とまぁ、突っ込みどころは満載な真田幸村ですが。


そもそも、真田幸村は戦国BASARAの設定のような「猪突猛進・熱血野郎」ではありません。

真田幸村の兄・信之さん曰く「柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無い」だそうで、本当の真田幸村は心優しく穏やかな好青年といった感じでしょうか。

ただし、幸村がかなり腕の立つ武将だったことは本当です。

大阪夏の陣(1615年)では、真田幸村率いる真田勢が敵軍総大将である徳川家康の本陣に斬り込み、家康に自害を覚悟させたという話は有名。

また、大阪夏の陣の前年、大阪冬の陣(1614年)では、真田幸村は豊臣軍の篭城作戦に反対。結果的には豊臣軍は篭城策を取り、大阪冬の陣を経て豊臣は滅亡することになりますが、このとき真田幸村の言うとおり積極的に攻めていれば歴史は変わっていたとも言われています。


長篠の戦い(1567年)以後、武田家が滅亡すると、真田家(当主は幸村の父・昌幸)は織田信長に恭順。
本能寺の変の後、豊臣秀吉の傘下となった真田家は、関が原の戦い(1600年)でも西軍に属することになります。

中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍を上田城にて迎え撃った真田軍は奮闘を見せ、手こずった徳川秀忠は途中で上田城攻略を諦めて関が原に向かいますが、結局、関が原の戦いには間に合いませんでした。


知略家であった父・真田昌幸と共に活躍を見せた幸村ですが、真田幸村の名が知れ渡るのは、何と言っても1614年から始まる大阪の役です。


大阪冬の陣では、大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に、かの有名な出城(砦のようなモノ)真田丸を建造。
真田幸村の兄・信之が徳川軍にいたこともあり、当初は「幸村のヤツ、徳川に寝返るつもりじゃね?」と豊臣の武将たちに警戒されていましたが、いざ戦になってみれば真田幸村&真田丸が大活躍
挑発に乗って攻め込んできた徳川の武将たちを散々に打ちのめし、徳川軍に大ダメージを与えました。(真田丸の戦い
当然、そんな危険な代物を徳川軍が放置しておくはずもなく、大阪冬の陣の講和条件として取り壊されてしまいます。


そして豊臣勢の戦力を削ぎたい徳川家康は、真田幸村に寝返りを打診します。
交渉相手は幸村の叔父である真田信尹さん。

信尹「家康が信濃に1万石くれるってさ。寝返っちゃえば?」
幸村「嫌でござる」
信尹「じゃあさ、信濃の国全部でどうよ?」
幸村「嫌でござるぅぅぅ!」

ゆっきー頑固ですw

そして、ゆっきーの名言が炸裂。
「この信繁(幸村)、一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか!」
戦国BASARAとは主は違えど(戦国BASARAでは武田信玄、史実では豊臣秀頼)真田幸村が忠義に篤い男だったことは史実どおりのようです。


そして翌年、大阪夏の陣へ突入。
お待たせしました。ここでついに史実でも真田幸村VS伊達政宗が実現します。

1615年、現在の大阪府藤井寺市にあたる道明寺村付近で行なわれた道明寺の戦いです。

と言っても、このときの伊達政宗は総大将ではなく、道明寺の戦いにおける幕府軍総大将は家康の六男である松平忠輝。
伊達政宗は松平忠輝の後見役として従軍していました。

また、実際に真田幸村が率いる部隊と戦ったのは、残念ながら(?)伊達政宗本人ではなく、伊達軍先鋒の片倉重長(竜の右目・片倉小十郎の嫡男。小十郎は病のため従軍できず)でした。

道明寺の戦いでは、真田VS片倉の激しい銃撃戦などがあり、真田勢は一時的にではありますが、片倉勢を押し返し軍を後退させることに成功。
その後、真田幸村は大阪城へ撤収することになりますが、勝ち戦を続ける真田勢の強さに徳川軍は攻撃を自重する羽目に。
つまりビビって安易に攻撃を仕掛けられなくなったワケですが、ここでも幸村の名言炸裂。

「関東の武将は百万いても、男はひとりも居ないのでござるな」

嘲笑と共に悠然と立ち去る真田幸村。
いや、嘲笑って・・・戦国BASARAのゆっきーからは想像も付きませぬw


ちなみに道明寺の戦いにおいて、真田幸村たちは後隊として午後から戦いに参加していますが、濃霧のため(諸説あり)予定より大幅に到着が遅れてしまいました。
後隊の到着が遅れてしまったことが原因で前隊の指揮官であった後藤基次をはじめ、多数の味方武将が討ち死にしてしまったことを幸村は嘆き、「濃霧のためとはいえ、味方を死なせてしまったのを恥ずかしく思う」と言って、この場での討死を覚悟したそうです。
それを止めたのが、この後に出てくる毛利勝永でした。
勝永さん、グッジョブ。


さて。大阪城に戻った真田幸村。

不利な状況を打破し、武将たちの士気を高めるために総大将である豊臣秀頼自身の出陣を求めます。

が、親バカ淀君(秀頼の母上)や側近たちによって敢え無く却下。

敗戦の色が濃くなる豊臣軍。最後の手段として真田幸村は毛利勝永や明石全登と共に徳川本陣に攻め込む作戦を立てます。
が、毛利軍の前衛武将が勝手に射撃を始めてしまったことから作戦は破綻。
真田幸村は正面から徳川家康の本陣に決死の突撃することになりました。
前述のとおり、幸村は凄まじい攻撃を見せ、家康に自害をも決意させるほどの活躍を見せましたが、数の上では圧倒的に不利。
追い詰められ、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、傷ついた味方兵士の看病をしていたところを襲われ、ついに真田幸村は命を散らすこととなりました。享年49歳。

翌年には豊臣秀頼と淀君は大阪城内で自害し、大阪城も炎上。徳川軍の勝利で、大阪の陣は終結することとなりました。


が、実は、このとき真田幸村は生きていたという伝説が残っています。

幸村には多数の影武者がいたため安居神社で死んだのは影武者であり、本物の真田幸村は、豊臣秀頼と淀君を大阪城から救い出し、紀州から薩摩の島津家領内へ逃げ延びた、というもの。

伝説はあくまでも伝説ですが、実際に「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田が連れて来て、退きも退いたよ加護島へ」という童歌があったり、現地には真田家家紋(六文銭)の付いた墓があるそうです。


ちなみに、かの名言「真田日本一の兵」と残しているのは、このとき島津家当主であった島津忠恒(島津義弘の三男)です。


ところで、先ほどからずっと真田幸村と表記していますし、戦国BASARAをはじめ数々のゲームや小説、漫画に「真田幸村」として登場していますが・・・

実は彼が「真田幸村」と名乗ったことは一度もありません。

それどころか、真田幸村という名前は資料としての根拠は一切なく、彼が生きていた時代の歴史的資料は全て「真田信繁」と表記されています。

江戸時代になってから流行した真田信繁の活躍を記した小説等で「真田幸村」という名前が使われてから現在まで、こちらの名前の方が有名になってしまったようです。

何故、名前を変えたのかは諸説ありますが、未だに謎。

一説には「幸」は真田家(正確には真田家の主家である海野家)の通字(代々名前に受け継ぐ字)で、「村」は徳川家を呪う妖刀・村雨に由来している、と言われています。
posted by M at 20:52 | Comment(4) | 武田軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

片倉小十郎(伊達軍)

竜の右目こと片倉小十郎(本名:片倉景綱)は、主君である伊達政宗より10歳年上の1557年生まれ。

最初は政宗の父である先代の伊達家当主・輝宗の小姓として仕えていましたが、1575年(小十郎20歳/政宗10歳)のとき、政宗の側近となり、以後、軍師として活躍していきます。

伊達家の軍師として重用された片倉小十郎ですから当然、頭は良かったのですが、幼い政宗の剣術指南も務めたほど剣術にも長けていました。


片倉小十郎は、1585年の人取橋の戦い(VS蘆名・佐竹連合軍)、1588年の郡山合戦(VS蘆名・佐竹連合軍)、1589年の摺上原の戦い(VS蘆名・佐竹連合軍。これにより伊達政宗は奥州の覇者となる)、1590年の小田原攻め(VS北条軍)、1593年の朝鮮出兵(VS明軍)、1600年の関が原の戦い(VS西軍)など、戦国BASARAファンにはおなじみの戦いにも、伊達政宗と共に参加し、活躍しました。

1614年から始まる大阪の陣には病気のために参加することは出来ず、代わって小十郎の嫡男である片倉重長(重綱)が参戦。
翌年1615年に、片倉小十郎は59歳で亡くなりました。

片倉小十郎が亡くなった後は、嫡男・重長(重綱)が小十郎の名を継承。
二代目・片倉小十郎も、かなりの剣の腕前だったようで、大阪の陣では豊臣軍武将の後藤又兵衛らを討ち取るなど奮戦し「鬼の小十郎」の異名を取りました。

以後、片倉小十郎の名は伊達家忠臣の鑑と呼ばれ、片倉家当主が代々受け継ぐこととなりました。


戦国BASARAでは竜の右目と呼ばれ、常に伊達政宗に付き従う忠義の男でしたが、実際の片倉小十郎も同様に「政宗様命」の男だったようです。

その逸話として有名なのが、伊達政宗(当時15歳)が初陣の際のお話。

敵兵を深追いしすぎて逆に囲まれてしまった政宗さん。この政宗さんのピンチを颯爽と救ったのが片倉小十郎でした。
政宗が敵に囲まれていることを知るや否や「我こそが伊達政宗なり!」と進み出て敵兵を引き付け、政宗の窮地を救ったそうです。

また、小十郎の妻が重長を身篭ったときは、主君である政宗に未だ子がなかったことから、自分の子供を殺そうとしたそうです。

さらに、世が豊臣の天下となった頃、片倉小十郎の能力を高く評価した豊臣秀吉は、自分の直臣に小十郎を迎えようとしますが、小十郎は政宗への忠義を理由に断固拒否。

亡くなるまで「政宗様命」を貫いた片倉小十郎。
小十郎の人徳を慕う者は多く、彼が亡くなったときには6名の家臣が殉死したそうです。


竜の右目こと片倉小十郎。そして、独眼竜・伊達政宗。
実は伊達政宗を「独眼竜」の姿に変えたのは、片倉小十郎だと言われています。

政宗の右目は、幼少の頃に患った天然痘が原因で視力を失います。
しかも、視力を失った右目は眼窩から飛び出し、政宗はとても醜い顔となってしまいます。
戦国武将としての伊達政宗のイメージからは想像が付きにくいですが、子供の頃の政宗は、醜い顔がコンプレックスで、無口で暗い性格でした。
これに見かねた片倉小十郎。まだ幼くイタイケな政宗さんを侍医のいる部屋へと強引に引っ張っていくと、いきなり政宗さんの頭を抱え込んで、短刀で飛び出た右目を抉り取ってしまいます。
そりゃーもうビックリなんて言葉では足りない衝撃と痛みを味わった政宗さんでしょうけれど、以後、政宗さんの根暗は治り、ひゃっほいキャラ明るく文武両道に精進する少年へと変貌したそうです。
posted by M at 19:47 | Comment(1) | 伊達軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伊達政宗(伊達軍)腐女子的余談w

伊達政宗と同性愛の関係にあった片倉小十郎・・・ではなく、その息子の片倉重綱くん。
政宗より18歳年下の重綱くんとのラブラブエピソードが、なんと書物にしっかり記述されています。

それは有名な大阪の陣の前夜・・・

「僕に先鋒を務めさせてください!」と言う重綱くんに対し政宗さんは、
「おめぇ以外に誰に任せられんだよ」と言い、頬にキス

書物に記述があるということは、人目も憚らず・・・ということなのでしょうか。
当時、戦国武将の間で同性愛は普通のことではありますが、公然とキスというのが普通だったかは・・・謎ですw

片倉重綱くんは超美青年で、関が原の合戦におけるヘタレっぷりで有名な小早川秀秋に付きまとわれて大変だったそうです。

ちなみに重綱くんは、あの真田幸村の娘と結婚しています。

大阪夏の陣で重綱と合間見えた真田幸村が「あの男になら子供たちを任せられる」と思い、重綱もそれに応え、結婚した娘の他にも数人の子供たちを引き取って養うことになりました。

※片倉重綱は後に重長と改名しています。
posted by M at 05:28 | Comment(1) | 伊達軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伊達政宗(伊達軍)

伊達政宗は1567年9月5日、伊達家第16代当主・輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の長男として誕生します。
1567年と言えば、既に戦国時代真っ只中。
織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いが1560年(政宗7歳)、本能寺の変が1582年(政宗15歳)ですから、政宗が生まれたのが、どれだけ遅かったかお分かりいただけると思います。
(ちなみに戦国BASARAでは仲睦まじいライバル関係にある真田幸村も1567年生まれだったりしますw)

本能寺の変と同じく1582年、隣接する大名・相馬氏への侵攻に15歳で参加したのが伊達政宗の初陣。
さらに3年後、政宗の武将としての素質を見抜いた父・輝宗の強い意思により、18歳の若さで伊達家の当主となります。


戦国BASARA内では英語を喋るcoolguyな伊達政宗。
実際の政宗も、ヨーロッパなどの外国と貿易をしていましたから、他の武将に比べては先進的だったのかもしれません。

特に、「伊達者」という言葉は伊達政宗の派手好きが由来という話は有名ですね。
ですが、実はコレ、政宗自身が派手好きというよりは、政宗の戦略だったそうです。

当時の主君である豊臣秀吉が派手好きだったため、秀吉に気に入られるために派手な軍装をさせ、なるべく最前線に配置されないようにしたとか。(豊臣秀吉が朝鮮出兵をする際のエピソード)
政宗公の部下思いな性格は、戦国BASARAのキャラ作りにも反映されているようですね。

伊達軍の戦装束は本当に格好良いらしく、伊達政宗の兜はスターウォーズの仮面キャラ、ダースベイダーのマスクのモデルになっています。

さて。

伊達政宗と言えば独眼竜。

政宗公が隻眼となってしまったのは、子供の頃に患った「天然痘」という病気が原因でした。
当時、天然痘は不治の病とされていたようですが、政宗公は奇跡的に生き延びます。

普通の人なら片目になってしまったのは物凄いコンプレックスだと思うのですが(多分、政宗公もコンプレックスではあったでしょうけど)この片目に関する、戦国BASARAの政宗公もビックリなエピソードが残されています。

豊臣秀吉や徳川家康に「右目はどうしたんだ?」と聞かれた政宗さん。
なんと「木から落ちたとき右目が取れちゃったんだけど、美味しそうだったから食べちゃった」と答えたそうなw

突っ込みどころ満載というかトンデモナイ回答ですが、実は、政宗公の知的センス溢れるシャレだったようです。

中国の三国志演義には、夏侯惇という政宗公と同じく隻眼の武将が出てくるのですが、この夏侯惇さんもぶっ飛んだお方で、「敵に左目を矢で貫かれた際、矢を眼球ごと引き抜いて食べてしまった」というエピソードがあります。(三国志演義はフィクションですw)
政宗さんは、このエピソードを引用して「食べちゃった」と答えたんだそうです。
さすが「伊達政宗は戦国屈指の教養人」と言われただけありますね。

ちなみに「独眼竜」という異名は後世の命名で、政宗本人が名乗ったわけではないようです。(どこぞの魔王さんとは違ってw)


大胆不敵にして知的センス抜群。

そんな政宗公の趣味は、なんと「料理」!
戦国の世が終わると、美食を極めるために料理の研究にハマっていたとかで、凍り豆腐や納豆、それに仙台名物「ずんだ餅」は、政宗が考案したという説があります。


ネタの宝庫とも言えるcoolな逸話が多い伊達政宗ですが、意外なことに政宗の弱点はお酒
酔っ払った上に二日酔いで、徳川二代将軍・秀忠との約束をすっぽかしてしまい、仮病を使って誤魔化したという話もあります。


天下分け目の関が原の戦いでは東軍(徳川)に付いた伊達政宗。
直接、関が原の戦いに参じることはありませんでしたが、戦国BASARAにもステージとして登場する長谷堂城の戦い(VS上杉軍)に援軍を送るなどする一方、一揆を扇動して領土を増やそうとするなど、政宗さんは相変わらず野心爆発。
(長谷堂城の戦いには、留守政景(この人もちゃんと戦国BASARAに登場しています)を名代とした援軍を送ったのみで、実際に伊達政宗は参戦していません)

結果的に天下は徳川家康のものとなり、伊達政宗は二代将軍・秀忠、三大将軍・家光を支えることになりました。


ここで徳川家の将軍を相手取った伊達政宗ビックリ武勇伝を、いくつか紹介。

エピソード1

二代将軍・秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待した際、政宗自らが食事を運びました。
そのとき、秀忠の側近が「毒見してみろ」と言ったのですが、コレに対して政宗さん激怒。
政宗さん曰く、

「Ha!オレを誰だと思ってやがる。(徳川幕府の基盤が磐石でない)10年前なら謀反を起こそうと思ったかもしれねぇが、それだって、この政宗は毒殺なんてみみっちぃ真似はしねぇ。派手に戦でも仕掛けてやったぜ!」(意訳w)

徳川家康が幕府を開いても常に天下を狙っていた伊達政宗。
だからこそ、この言葉には説得力があったようで「伊達の親父さん、さすがっす・・・」と将軍・秀忠公も涙したとか。


エピソード2

三代将軍・家光の時代、鷹狩り好きな家光公は外泊ばかりしていました。
困った部下たちが政宗に相談すると、政宗は家光に向かって・・・

「外泊は止めとけよ。オレも家康の首を何度か狙ったもんだぜ」

この一言で、家光さんはビビって外泊をしなくなったそうですw


そんなこんなで、BASARAの伊達政宗像も「実は結構そのまんまのキャラなんじゃ・・・」と思ってしまうような実際の伊達政宗公。
ハチャメチャな逸話を数々残しつつ、1636年5月、江戸の屋敷で亡くなられました。享年70歳。
死因は癌性腹膜炎か食道癌と言われています。


最後に、伊達政宗のマザコン親孝行なエピソードを紹介。

伊達政宗公の死後に作られた木像や絵などには、本来ないはずの右目が小さく入れられて、両目の政宗とされています。
これは「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは親不孝である」という政宗自身の意思を元にされているとか。

子供時代は母親(義姫)に毒殺されかかっているにもかかわらず、後に命を助けたり(上杉家に攻撃される最上家の城を狙って「漁夫の利を得よ」との片倉小十郎の進言を「ママがいるから」という理由で却下)、文通して親交を深めたり、なかなか母親思いな一面もある伊達政宗です。
(毒殺騒動のときも、毒殺しようとした動機が弟・小次郎を当主にしようとしたことだったため、母親ではなく弟を処罰しました)


その一方で、父親を見殺しにしたというエピソードもある伊達政宗。

伊達家の強さにビビった畠山氏との和議が結ばれた直後、畠山義継に父・輝宗を拉致されてしまいます。
そのとき政宗は狩りに出ていましたが、急遽戻り、畠山義継を追跡。
「自分ごと撃て!」と命じる父に、政宗は泣く泣く鉄砲を放ち、皆殺しにしました。(人取橋の戦い

(ただし先述の母親による毒殺騒動や、父親の拉致事件は、全て諸説あり、政宗による自作自演や陰謀だったとも言われています)


また、最近の調査により伊達政宗さんはB型だったことを追記しておきますw
posted by M at 05:06 | Comment(3) | 伊達軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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