戦国BASARA的リアル戦国武将

スポンサードリンク

織田信長包囲網

浅井長政のところで少し触れた、信長包囲網について。

信長包囲網とは、1570年、浅井・朝倉連合軍VS織田・徳川連合軍がぶつかり合った姉川の戦いの後、将軍・足利義昭の呼びかけに応えて反織田勢力が組んだ連合のことです。

この頃、織田信長は上洛を果たしたものの、将軍との関係が悪化していました。

要は、将軍をダシに使ったことがあからさまになってきたので、鬱陶しくなった将軍が「あいつ潰しちゃってよ!」と泣きついてきたって感じでしょうかw

将軍・足利義昭を盟主とし、信長包囲網に参加した主な勢力は・・・

足利義昭(室町幕府15代将軍)/浅井長政/朝倉義景/石山本願寺(顕如)/雑賀衆(雑賀一揆)/比叡山延暦寺/三好義継/三好三人衆/松永久秀/武田信玄/近衛前久(信長に追われて石山本願寺に亡命中。ただし、義昭とも対立関係にあった)/六角義賢

アニメ戦国BASARAでは、信長包囲網の勢力としては、伊達軍・武田軍・上杉軍が核となっていましたが、当時の信長包囲網に上杉謙信は加わっていませんでした。

徳川軍に関しては、織田と同盟を組んで味方同士でしたから論外。
お館様は家康を説得するどころか、上洛の際にはシカトしようとしてましたからねw(後に、怒った家康が出陣して戦になりますが。←三方ヶ原の戦い

信長包囲網で鍵となった存在が、そのころ甲斐を平定した甲斐の虎こと武田信玄、そして浅井長政と朝倉義景です。
長政様の項でも触れましたが、浅井・朝倉連合軍を攻めていた織田信長を近江に足止めし、その隙に信玄が上洛してしまおう!という作戦。
軍を二分するより仕方がなく、信長が全力で阻止出来ない今こそ信玄の上洛のチャンス!だった訳です。

この作戦が成れば本当に歴史は変わっていたと思うのですが・・・信玄は、先述の三方ヶ原の戦い(1571年10月)で家康を破り急いで京都を目指したものの、朝倉軍の(ヘタレな理由による)撤退により信長は美濃に帰還(同年12月)。1572年3月には将軍・足利義昭が京都で挙兵しますが信長によって制圧され、4月には武田信玄が死去してしまいます。

この信長包囲網の中で最も信長が警戒していた武田信玄が死んだことにより、もはや残りのメンバーでは信長を抑えることなど不可能。
結局、信玄の死から一年ほどで、信長包囲網に参加していたほとんどの勢力が壊滅状態(もしくは滅亡)してしまい、将軍・足利義昭も京から追放されてしまったのでした。


信玄の死から3年後の1576年、信長の下から離反者が出たことなどをキッカケに、第二次信長包囲網が結成されます。

主な勢力は以下のとおり。

足利義昭/波多野秀治/山名祐豊/石山本願寺/毛利輝元(毛利元就の孫)/宇喜多直家/村上吉充(瀬戸内の村上水軍)/上杉謙信/松永久秀(第一次信長包囲網の後、信長に降伏するも再び離反)/雑賀衆/別所長治/荒木村重/武田勝頼(武田信玄の跡継ぎ)

信長包囲網の西側勢力、挙兵した本願寺は信長に敗戦してしまいますが、本願寺に兵糧を運び込むために進軍した毛利・小早川・村上の連合水軍は織田軍に大打撃を与え勝利。(第一次木津川口の戦い)
さらに東側勢力としては上杉謙信が手取川の戦い(1577年11月)にて、倍近くの戦力を有した柴田勝家率いる織田軍に大勝。

今回こそ魔王ピンチ!?という状況でしたが、1578年4月、今度は謙信様が急死してしまいます。

第二次信長包囲網において、信長にとって最も強敵だった上杉謙信が死んだことにより、今回も信長包囲網は急激に勢いが衰えてしまいました。

結果、1580年に本願寺が明け渡されたことで、信長包囲網は崩壊します。


野暮を言うようですが、当然の如く伊達軍は全く関係ありませんw
しかも武田軍と上杉軍が共闘したこともないという・・・アニメ戦国BASARAでの興奮シーンに水を差すような記事になってしまいました・・・。
posted by M at 19:51 | Comment(0) | 織田信長包囲網 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。