戦国BASARA的リアル戦国武将

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武田信玄(武田軍)腐女子的余談w

武田信玄には高坂昌信という衆道(同性愛)相手がいました。

高坂昌信は、信玄と勝頼の二代に渡って仕えた武将ですが、武田軍には珍しく冷静沈着な性格の持ち主。しかも美形

高坂さんは信玄に拾われてから、異例の大出世をしていきますが、これも信玄の寵愛ゆえという噂があります。

さて。信玄公と高坂さんですが、イカツイ信玄のイメージからは想像も出来ないほどラブラブだったというか、尻に敷かれていたというか・・・w

信玄が尻に敷かれていた証拠(?)として、武田信玄から高坂昌信に宛てた書状が残されています。

この書状の内容が・・・「浮気してゴメン!」ですよw

信玄の浮気がバレて、高坂さんが激怒して機嫌損ねちゃったんで、慌てて手紙を書いたんだそうです。

お館様・・・しっかりしてくださいw

ちなみに、第4次川中島の戦い(1561年)で武田軍は上杉謙信が陣を張る妻女山へ別働隊を用いて奇襲をかけますが(この奇襲が戦国BASARAにも出てくる、有名な啄木鳥戦法です)このとき別働隊を任されたのが高坂昌信でした。

戦国BASARAでは別働隊を率いていたのは真田幸村になっているので、もしかしてBASARA的には真田幸村=高坂昌信という感じなのでしょうかw
posted by M at 05:54 | Comment(2) | 武田軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

武田信玄(武田軍)

甲斐の虎こと、武田信玄(武田晴信)は、1521年12月1日生まれ。
伊達政宗や真田幸村が1567年生まれなので、かなり年は離れていますが、それは戦国BASARAでは禁句ってコトでw
(他にも「年の話はしちゃイヤンv」な方も、たくさん出てきますのでw)

信玄の父であり、先代の武田家当主であった武田信虎の時代には、既に甲斐の国を統一していて、信玄は、その跡を継いだ形で、隣国である信濃や三河へと侵攻して行くことになります。


1542年には諏訪を支配下に治め、1550年には中信、1553年に東信も武田家の支配下に置かれ、信濃のほとんど(北信以外)を平定します。


戦国BASARAでは「義理人情に厚い人」というイメージで、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」 という言葉も残している武田信玄ですが、実際の信玄は細かくて、結構腹黒い上に容赦ない性格だったようです(汗)


▼信玄の容赦ないエピソード

1547年に小田井原の戦いで笠原清繁と、援軍にやってきた上杉憲政(上杉謙信の養父)の連合軍に苦戦しつつも約3000人を討ち取る大勝を収めた武田信玄は、討ち取った敵兵の首を笠原氏の居城・志賀城の周りに並べて脅しをかけます。

この脅しで志賀城に篭った兵たちは篭城を解かず、笠原清繁を始め城兵の多くが討ち死、さらに残った女子供と奉公の男を人質や奴隷にしてしまいます。

この過酷な処分に信濃国民は武田信玄に不信感を抱き、信玄の信濃平定が遅れる原因になったと言われています。

そもそも、信玄が武田家の当主になったのも実父を追放してのことですから、温厚なイメージを持たせる方が無理があるのかもしれません(汗)


▼信玄の腹黒エピソード

武田家は多くの国と同盟を結んでいましたが、実は結構な勢いで裏切っています。
(諏訪家、織田家、今川家、徳川家、北条家など)

織田に対してはヒドいもので、打倒織田信長のために将軍・足利義昭に呼びかけられて上洛を開始しつつ、その一方で織田信長に友好的な書状を送り続けるなど、かなりの腹黒さを見せ付けてくれます。
戦国BASARAで伊達政宗が信玄のことを「アンタも食えねぇオッサンだな」みたいなことを言いますが、まさにそのとおりです。

そんな信玄の性格は近隣諸国には有名だったようで、外交にはほとんど信用がなかったお館様。

そのとばっちりを食らったのが、跡取り息子の武田勝頼です。

信玄の遺言に従って、上杉と同盟を結ぼうとしたのですが「アンタんとこ、散々同盟裏切りまくってたけど、ホントに大丈夫なワケ?」とチクっとやられてしまいました。哀。


▼お館様、パクリでござる!

風林火山として良く知られる「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し)」という言葉には続きがあり、「難知如陰 動如雷霆(知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい=雷)の如し)」となります。

なので、正しくは風林火山陰雷となるのでしょうけれど、さすがに長いので省略したのかもしれませんねw
(実際に軍旗に書かれていた言葉は「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」なので、あまり省略されてない気もしますがw)

ちなみに、風林火山=武田信玄というイメージが強いですが、実は、この言葉は信玄が軍旗に用いる約200年前に、北畠顕家という人が陣旗として使っていました。


▼器がデカイのか小さいのか・・・

戦国BASARAでは、武田信玄の器の大きさに心酔しきっている真田幸村ですが、本当に器の大きな人物だったのかは、ちょっと疑問があります。

武田信玄の永遠のライバルといえば上杉謙信ですが、実は、武田信玄は上杉謙信のことを一度も「上杉」と呼ばなかったそうです。

と言うのも、武田家の肩書きは「甲斐守護職」なのに対して、長尾家(上杉謙信の前の名前)は「越後守護職」。
これが、長尾家が上杉家となると、越後守護代から関東管領となり、甲斐守護よりもエラくなってしまう訳です。
それが面白くなかった信玄は、最後まで長尾姓で呼び続けたと言います。

・・・いいのか、それで!?w


▼お茶目なお館様

武田軍兵士が休みの日には欠かさず現れるという武田道場には様々な仕掛けが施してありますが(戦国BASARA2英雄外伝より)武田信玄の住んでいた躑躅ヶ崎館にも、驚くべき仕掛けがありました。

それは・・・なんと水洗トイレ

館の裏から流れる水を利用した仕組みで、信玄が紐を引っ張ると鈴が鳴り、それが伝言ゲームのように続いていきます。
そして上流まで届くと、上から水を流されるというもの。

この仕組み=水洗トイレのことを、信玄は「山」と呼んでいたそうです。

「はて、何故、厠のことを山と呼ぶのでござるか?」
「それは、山には常に草木(臭き)が絶えぬからよ!」
「・・・・・・(親父ギャグかよっ)」

武田道場でのシーンのように、紐がブチっとならなかったことを願っています。


と、ここまで川中島の戦いについて全く触れていないのですが(このサイトでは人物紹介がメインなので。汗)
調べている途中で気付いたので、書いておきます。


アニメ戦国BASARAで伊達政宗と真田幸村が出逢ったのは、どうやら1564年に行なわれた第5次川中島の戦いの最中のようです。

史実でも、第5次川中島の戦いは武田信玄VS上杉謙信の最後の戦いとされ、両軍が睨み合ったまま衝突せずに終わっています。
その後、織田信長が今川義元を討つ桶狭間の戦い(1560年)が起きることも史実どおり。
さらに1569年には小田原城を包囲するなど、川中島→小田原という流れも(小田原城包囲と桶狭間が逆になってますが)史実に沿ってるわけですね。

ぶっ飛んだ設定の多い戦国BASARAですが、こういう細かなところで史実を持ってくるので、なかなか侮れませぬ。

(ただし、このときの北条家当主は例の「氏康様(氏政の父)」で、小田原城を包囲はしましたが、攻めることはしませんでした)


アニメではこの後、武田信玄が徳川家康を説得したり、織田信長が家康を裏切ったりで「反織田包囲網」を作り上げていくわけですが、実際はそう上手く行かず、武田軍は織田や徳川と対立して行きます。

そして1573年、かの有名な「ワシの死は3年隠せ」という遺言を残し、甲斐の虎こと武田信玄は亡くなります。

以前から病を患っていたようですが、1573年の2月頃から度々吐血するようになり、武田軍は進軍を止め、長篠城で療養するようになります。

それでも一向に信玄の容態が回復しないため、4月初旬には甲斐へと一時撤退することを決めますが、その道中、4月12日に、甲斐へと続く三河街道上で亡くなってしまいました。享年53歳。

死因は様々な説があるようですが、主なものとしては、肺結核、胃癌(もしくは食道癌)など、病死とされています。
都市伝説的な説では、織田信長によるヒ素毒殺という噂も・・・。


信玄の遺言からは少し早いですが、2年後の1575年4月に葬儀が行われました。
奇しくも、この直後(1575年6月)に長篠の戦いが起こり、織田・徳川の連合軍に大敗した武田家は滅亡への道を辿ることになります。

やはり3年待たずに葬儀を行なってしまった呪いでしょうか・・・(違っ)
posted by M at 05:02 | Comment(0) | 武田軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

猿飛佐助(武田軍)

真田幸村が配下、真田忍隊隊長の猿飛佐助。
このサイトで取り上げるべきかどうか悩みましたが、一応。(一応って・・・)

と言うのも、猿飛佐助は忍者としては超有名なキャラですが、あくまでもキャラはキャラ。
猿飛佐助は架空の人物ですw

元々は大正時代に流行した小説「真田十勇士」の登場人物で、真田幸村と共に活躍し、大阪夏の陣の後は、真田幸村と共に薩摩に生き延びたことになっています。
(史実では、真田幸村は大阪夏の陣で討死。←異説アリ)

▼真田十勇士のメンバー
猿飛佐助(さるとび さすけ)
霧隠才蔵(きりがくれ さいぞう)
三好清海入道(みよし せいかい にゅうどう)
三好伊三入道(みよし いさ にゅうどう)
穴山小介(小助)(あなやま こすけ)
由利鎌之助(ゆり かまのすけ)
筧十蔵(かけい じゅうぞう)
海野六郎(うんの ろくろう)
根津甚八(ねづ じんぱち)
望月六郎(もちづき ろくろう)


猿飛佐助にはモデルがいたという説もありますが、本当のところは分かっていないようです。

また、猿飛佐助は戸隠の出身ですが、忍者としての流派は甲賀流。
(対して、徳川に仕えた忍者・服部半蔵は伊賀流)
これは、真田幸村が主とした豊臣家が、甲賀忍軍を擁していたからだと言われています。


俺様、忍なのに目立ちすぎじゃね?」と本人にも自覚があるように(?)「おまえ本当に忍者かーッ!」とツッコみたくなる佐助ですが、まぁ存在自体がフィクションなので勘弁してあげてくださいw
posted by M at 02:18 | Comment(1) | 武田軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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