戦国BASARA的リアル戦国武将

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片倉小十郎(伊達軍)

竜の右目こと片倉小十郎(本名:片倉景綱)は、主君である伊達政宗より10歳年上の1557年生まれ。

最初は政宗の父である先代の伊達家当主・輝宗の小姓として仕えていましたが、1575年(小十郎20歳/政宗10歳)のとき、政宗の側近となり、以後、軍師として活躍していきます。

伊達家の軍師として重用された片倉小十郎ですから当然、頭は良かったのですが、幼い政宗の剣術指南も務めたほど剣術にも長けていました。


片倉小十郎は、1585年の人取橋の戦い(VS蘆名・佐竹連合軍)、1588年の郡山合戦(VS蘆名・佐竹連合軍)、1589年の摺上原の戦い(VS蘆名・佐竹連合軍。これにより伊達政宗は奥州の覇者となる)、1590年の小田原攻め(VS北条軍)、1593年の朝鮮出兵(VS明軍)、1600年の関が原の戦い(VS西軍)など、戦国BASARAファンにはおなじみの戦いにも、伊達政宗と共に参加し、活躍しました。

1614年から始まる大阪の陣には病気のために参加することは出来ず、代わって小十郎の嫡男である片倉重長(重綱)が参戦。
翌年1615年に、片倉小十郎は59歳で亡くなりました。

片倉小十郎が亡くなった後は、嫡男・重長(重綱)が小十郎の名を継承。
二代目・片倉小十郎も、かなりの剣の腕前だったようで、大阪の陣では豊臣軍武将の後藤又兵衛らを討ち取るなど奮戦し「鬼の小十郎」の異名を取りました。

以後、片倉小十郎の名は伊達家忠臣の鑑と呼ばれ、片倉家当主が代々受け継ぐこととなりました。


戦国BASARAでは竜の右目と呼ばれ、常に伊達政宗に付き従う忠義の男でしたが、実際の片倉小十郎も同様に「政宗様命」の男だったようです。

その逸話として有名なのが、伊達政宗(当時15歳)が初陣の際のお話。

敵兵を深追いしすぎて逆に囲まれてしまった政宗さん。この政宗さんのピンチを颯爽と救ったのが片倉小十郎でした。
政宗が敵に囲まれていることを知るや否や「我こそが伊達政宗なり!」と進み出て敵兵を引き付け、政宗の窮地を救ったそうです。

また、小十郎の妻が重長を身篭ったときは、主君である政宗に未だ子がなかったことから、自分の子供を殺そうとしたそうです。

さらに、世が豊臣の天下となった頃、片倉小十郎の能力を高く評価した豊臣秀吉は、自分の直臣に小十郎を迎えようとしますが、小十郎は政宗への忠義を理由に断固拒否。

亡くなるまで「政宗様命」を貫いた片倉小十郎。
小十郎の人徳を慕う者は多く、彼が亡くなったときには6名の家臣が殉死したそうです。


竜の右目こと片倉小十郎。そして、独眼竜・伊達政宗。
実は伊達政宗を「独眼竜」の姿に変えたのは、片倉小十郎だと言われています。

政宗の右目は、幼少の頃に患った天然痘が原因で視力を失います。
しかも、視力を失った右目は眼窩から飛び出し、政宗はとても醜い顔となってしまいます。
戦国武将としての伊達政宗のイメージからは想像が付きにくいですが、子供の頃の政宗は、醜い顔がコンプレックスで、無口で暗い性格でした。
これに見かねた片倉小十郎。まだ幼くイタイケな政宗さんを侍医のいる部屋へと強引に引っ張っていくと、いきなり政宗さんの頭を抱え込んで、短刀で飛び出た右目を抉り取ってしまいます。
そりゃーもうビックリなんて言葉では足りない衝撃と痛みを味わった政宗さんでしょうけれど、以後、政宗さんの根暗は治り、ひゃっほいキャラ明るく文武両道に精進する少年へと変貌したそうです。

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posted by M at 19:47 | Comment(1) | 伊達軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
政宗様命って・・・・・・!
流石こじゅ!素敵だぁあああああああ!!!!!!!
ニヤニヤしながら見させて頂きましたw

政宗の目に関してのこじゅとの関わりとか、政宗の暗い性格のこととかは知っていましたが、抉った後、明るくなったっていうのは初耳です◎Д◎;
これからの妄想に生かしていきたいとおm(ry
Posted by おおかみ at 2010年12月09日 18:52
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