戦国BASARA的リアル戦国武将

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伊達政宗(伊達軍)

伊達政宗は1567年9月5日、伊達家第16代当主・輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の長男として誕生します。
1567年と言えば、既に戦国時代真っ只中。
織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いが1560年(政宗7歳)、本能寺の変が1582年(政宗15歳)ですから、政宗が生まれたのが、どれだけ遅かったかお分かりいただけると思います。
(ちなみに戦国BASARAでは仲睦まじいライバル関係にある真田幸村も1567年生まれだったりしますw)

本能寺の変と同じく1582年、隣接する大名・相馬氏への侵攻に15歳で参加したのが伊達政宗の初陣。
さらに3年後、政宗の武将としての素質を見抜いた父・輝宗の強い意思により、18歳の若さで伊達家の当主となります。


戦国BASARA内では英語を喋るcoolguyな伊達政宗。
実際の政宗も、ヨーロッパなどの外国と貿易をしていましたから、他の武将に比べては先進的だったのかもしれません。

特に、「伊達者」という言葉は伊達政宗の派手好きが由来という話は有名ですね。
ですが、実はコレ、政宗自身が派手好きというよりは、政宗の戦略だったそうです。

当時の主君である豊臣秀吉が派手好きだったため、秀吉に気に入られるために派手な軍装をさせ、なるべく最前線に配置されないようにしたとか。(豊臣秀吉が朝鮮出兵をする際のエピソード)
政宗公の部下思いな性格は、戦国BASARAのキャラ作りにも反映されているようですね。

伊達軍の戦装束は本当に格好良いらしく、伊達政宗の兜はスターウォーズの仮面キャラ、ダースベイダーのマスクのモデルになっています。

さて。

伊達政宗と言えば独眼竜。

政宗公が隻眼となってしまったのは、子供の頃に患った「天然痘」という病気が原因でした。
当時、天然痘は不治の病とされていたようですが、政宗公は奇跡的に生き延びます。

普通の人なら片目になってしまったのは物凄いコンプレックスだと思うのですが(多分、政宗公もコンプレックスではあったでしょうけど)この片目に関する、戦国BASARAの政宗公もビックリなエピソードが残されています。

豊臣秀吉や徳川家康に「右目はどうしたんだ?」と聞かれた政宗さん。
なんと「木から落ちたとき右目が取れちゃったんだけど、美味しそうだったから食べちゃった」と答えたそうなw

突っ込みどころ満載というかトンデモナイ回答ですが、実は、政宗公の知的センス溢れるシャレだったようです。

中国の三国志演義には、夏侯惇という政宗公と同じく隻眼の武将が出てくるのですが、この夏侯惇さんもぶっ飛んだお方で、「敵に左目を矢で貫かれた際、矢を眼球ごと引き抜いて食べてしまった」というエピソードがあります。(三国志演義はフィクションですw)
政宗さんは、このエピソードを引用して「食べちゃった」と答えたんだそうです。
さすが「伊達政宗は戦国屈指の教養人」と言われただけありますね。

ちなみに「独眼竜」という異名は後世の命名で、政宗本人が名乗ったわけではないようです。(どこぞの魔王さんとは違ってw)


大胆不敵にして知的センス抜群。

そんな政宗公の趣味は、なんと「料理」!
戦国の世が終わると、美食を極めるために料理の研究にハマっていたとかで、凍り豆腐や納豆、それに仙台名物「ずんだ餅」は、政宗が考案したという説があります。


ネタの宝庫とも言えるcoolな逸話が多い伊達政宗ですが、意外なことに政宗の弱点はお酒
酔っ払った上に二日酔いで、徳川二代将軍・秀忠との約束をすっぽかしてしまい、仮病を使って誤魔化したという話もあります。


天下分け目の関が原の戦いでは東軍(徳川)に付いた伊達政宗。
直接、関が原の戦いに参じることはありませんでしたが、戦国BASARAにもステージとして登場する長谷堂城の戦い(VS上杉軍)に援軍を送るなどする一方、一揆を扇動して領土を増やそうとするなど、政宗さんは相変わらず野心爆発。
(長谷堂城の戦いには、留守政景(この人もちゃんと戦国BASARAに登場しています)を名代とした援軍を送ったのみで、実際に伊達政宗は参戦していません)

結果的に天下は徳川家康のものとなり、伊達政宗は二代将軍・秀忠、三大将軍・家光を支えることになりました。


ここで徳川家の将軍を相手取った伊達政宗ビックリ武勇伝を、いくつか紹介。

エピソード1

二代将軍・秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待した際、政宗自らが食事を運びました。
そのとき、秀忠の側近が「毒見してみろ」と言ったのですが、コレに対して政宗さん激怒。
政宗さん曰く、

「Ha!オレを誰だと思ってやがる。(徳川幕府の基盤が磐石でない)10年前なら謀反を起こそうと思ったかもしれねぇが、それだって、この政宗は毒殺なんてみみっちぃ真似はしねぇ。派手に戦でも仕掛けてやったぜ!」(意訳w)

徳川家康が幕府を開いても常に天下を狙っていた伊達政宗。
だからこそ、この言葉には説得力があったようで「伊達の親父さん、さすがっす・・・」と将軍・秀忠公も涙したとか。


エピソード2

三代将軍・家光の時代、鷹狩り好きな家光公は外泊ばかりしていました。
困った部下たちが政宗に相談すると、政宗は家光に向かって・・・

「外泊は止めとけよ。オレも家康の首を何度か狙ったもんだぜ」

この一言で、家光さんはビビって外泊をしなくなったそうですw


そんなこんなで、BASARAの伊達政宗像も「実は結構そのまんまのキャラなんじゃ・・・」と思ってしまうような実際の伊達政宗公。
ハチャメチャな逸話を数々残しつつ、1636年5月、江戸の屋敷で亡くなられました。享年70歳。
死因は癌性腹膜炎か食道癌と言われています。


最後に、伊達政宗のマザコン親孝行なエピソードを紹介。

伊達政宗公の死後に作られた木像や絵などには、本来ないはずの右目が小さく入れられて、両目の政宗とされています。
これは「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは親不孝である」という政宗自身の意思を元にされているとか。

子供時代は母親(義姫)に毒殺されかかっているにもかかわらず、後に命を助けたり(上杉家に攻撃される最上家の城を狙って「漁夫の利を得よ」との片倉小十郎の進言を「ママがいるから」という理由で却下)、文通して親交を深めたり、なかなか母親思いな一面もある伊達政宗です。
(毒殺騒動のときも、毒殺しようとした動機が弟・小次郎を当主にしようとしたことだったため、母親ではなく弟を処罰しました)


その一方で、父親を見殺しにしたというエピソードもある伊達政宗。

伊達家の強さにビビった畠山氏との和議が結ばれた直後、畠山義継に父・輝宗を拉致されてしまいます。
そのとき政宗は狩りに出ていましたが、急遽戻り、畠山義継を追跡。
「自分ごと撃て!」と命じる父に、政宗は泣く泣く鉄砲を放ち、皆殺しにしました。(人取橋の戦い

(ただし先述の母親による毒殺騒動や、父親の拉致事件は、全て諸説あり、政宗による自作自演や陰謀だったとも言われています)


また、最近の調査により伊達政宗さんはB型だったことを追記しておきますw

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posted by M at 05:06 | Comment(3) | 伊達軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
どんな形だったとはいえ、政宗が派手好きということに感動!
でも食べちゃったって・・・wほんとにツッこめない恐ろしいボケですよww

料理が趣味だと!?びっくらこいた!
ずんだ餅はすぐに幸村のところへ届けてあげて(^p^)

武勇伝、おもしろかったです。
輝宗さんのエピソード・・・あれは泣けますよね;ω;

まっ・・・政宗がB型だと!?
最後にびっくりさせられたよ!!
私と同じ血液型だと!?嬉しすぎるぜこんちくしょう!!!

とっても分かりやすい素敵なリアル戦国武将紹介でした♪
もっと増やしていただけたら嬉しいです。
少しずつ、全部見て行きたいと思います。
ありがとうございました!頑張ってください。

Posted by at 2010年12月09日 19:26
どんな形だったとはいえ、政宗が派手好きということに感動!
でも食べちゃったって・・・wほんとにツッこめない恐ろしいボケですよww

料理が趣味だと!?びっくらこいた!
ずんだ餅はすぐに幸村のところへ届けてあげて(^p^)

武勇伝、おもしろかったです。
輝宗さんのエピソード・・・あれは泣けますよね;ω;

まっ・・・政宗がB型だと!?
最後にびっくりさせられたよ!!
私と同じ血液型だと!?嬉しすぎるぜこんちくしょう!!!

とっても分かりやすい素敵なリアル戦国武将紹介でした♪
もっと増やしていただけたら嬉しいです。
少しずつ、全部見て行きたいと思います。
ありがとうございました!頑張ってください。

Posted by おおかみ at 2010年12月09日 19:26
とても分かりやすくて、面白いです。

コレを参考にして、夏休みの宿題をさっさとやってしまおうと思います!!

こんな素晴らしい記事をありがとうございました!!
Posted by あかちゅき at 2011年07月23日 18:08
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