戦国BASARA的リアル戦国武将

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市(浅井軍)

浅井長政の妻・市は、1547年に、織田信秀(信長の父)と側室の間に生まれたと言われていますが、母親について本当のところは分かっていません。
戦国随一の美女と名高い市姫。織田家自体が美形の家系と伝わっていますが、兄である信長も美形であり、さらに姉(妹の可能性もあり)も「光を放つような美女」と言われていることから、市は側室の娘ではなく、信長と同じ正室・土田御前の娘ではないかという説もあります。
と同時に、信長の従妹(信長の叔父である織田信光の娘)とする史料があったり、江戸時代の「織田系図」には信長の従兄弟である織田広良の娘と記されていたりするので、結構、市は謎の女性ですw
(この時代、女性に関する史料って少ないんですよね・・・)

近江の浅井家との同盟のため、当主である浅井長政と政略結婚した市ですが、長政&市のラブラブっぷりと言ったら周りが羨むほどだったと言います。
この織田と浅井の同盟は、織田氏と朝倉氏の戦が起きたことによって後に破棄されることになりますが、ギリギリまで織田につくか朝倉につくかを長政が迷ったことに、朝倉派の家臣たちは「市のせいで長政様が惑わされている」とまで言っていたとか。

お市の方で有名なエピソードと言ったら、やっぱり「小豆袋」ですね。
1570年、織田信長の朝倉攻めの際、ついに織田との同盟破棄を決意した浅井長政が織田軍の背後から急襲。そのピンチを報せるため、市は兄・信長に陣中見舞いとして袋の両端を縛った小豆袋を贈りました。
袋の中の小豆は織田軍。両端をきつく結ばれていることは「出口なし」つまり、朝倉軍と浅井軍による挟撃を意味していました。
これによって浅井軍の裏切りを知った信長は、逸早く撤退を指示し、そのおかげで危うく難を逃れたと言います。(金ヶ崎の戦い/金ヶ崎の退き口)

ですが・・・

実はこの小豆袋の兄妹美談は捏造だったという説が有力なようです。

というのも、市は長政様にベッタリラブラブでしたから、もうすっかり市は浅井家の人間だった訳です。
その市が、夫である長政を裏切るような行動をするはずがない、ということですね。
しかも、当時の習慣として、女は一度嫁入りしたら、もう実家ではなく嫁いだ先の人間として生きていくのが当たり前。
織田信長に嫁いだ斉藤道三の娘・濃姫のエピソードでも、その辺はお分かりかと思います。(このエピソードについては、後日、濃姫のときに・・・)

さて。織田・徳川連合軍の前に滅んだ浅井家ですが、その後の市はと言うと、1582年に、信長の家臣だった柴田勝家と再婚しています。
当時はまだ羽柴と名乗っていた豊臣秀吉が熱烈に求愛したようですが、お市は秀吉が大嫌いだったようで、秀吉へのアテツケに勝家と結婚しちゃった、という噂も・・・w
さらに、信長の後継者の座を巡って秀吉VS勝家の戦いが勃発し(1583年/賤ヶ岳の戦い)勝家が敗れると、命を救おうとする秀吉の誘いを頑なに断り、娘たちだけを逃がした市は勝家と共に自害しました。享年37歳。

こんな風に「死んでも秀吉の嫁にだけはなりたくない!」と、本当に命を賭けてアピールした市ですが、その理由は色々と噂があります。

▼市が秀吉を大嫌いだった理由
・浅井家滅亡の際、長男の万福丸を処刑したのが秀吉だったから。
・秀吉が猿顔でブサイクだったから。(兄・信長や夫・長政はイケメンだった)
・秀吉が元農民の成り上がり者だったから。

結局、秀吉は市を手に入れることは出来ませんでしたが、後に市の長女・茶々(淀殿)を側室に迎えます。
母を自害に追い込んだ秀吉の側室となった茶々の心境についても色々な説がありますが、秀吉が茶々を側室に選んだのは、ズバリ「茶々の顔が市に似ていたから」だとか。
いやはや執念深いと言うか、何と言うか・・・。

ちなみに余談ではありますが、ゲーム戦国BASARA2 英雄外伝の主題歌、abingdon boys schoolが歌う「BLADE CHORD」の歌詞にある「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の夢」は市の辞世の句がモチーフになっています。

▼市の辞世の句
「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」

落城の際、市は娘たちに「浅井家の血を絶対に絶やしてはならない」と諭したそうです。そして、その言葉どおり、後に徳川幕府の二代将軍・徳川秀忠に嫁いだ三女・江は多くの子を産み、浅井の血筋は現在まで続いています。
(※浅井長政と市の娘、江(崇源院)は、2011年NHK大河ドラマの主人公として描かれる予定です)
【浅井軍の最新記事】
posted by M at 00:23 | Comment(2) | 浅井軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

織田信長包囲網

浅井長政のところで少し触れた、信長包囲網について。

信長包囲網とは、1570年、浅井・朝倉連合軍VS織田・徳川連合軍がぶつかり合った姉川の戦いの後、将軍・足利義昭の呼びかけに応えて反織田勢力が組んだ連合のことです。

この頃、織田信長は上洛を果たしたものの、将軍との関係が悪化していました。

要は、将軍をダシに使ったことがあからさまになってきたので、鬱陶しくなった将軍が「あいつ潰しちゃってよ!」と泣きついてきたって感じでしょうかw

将軍・足利義昭を盟主とし、信長包囲網に参加した主な勢力は・・・

足利義昭(室町幕府15代将軍)/浅井長政/朝倉義景/石山本願寺(顕如)/雑賀衆(雑賀一揆)/比叡山延暦寺/三好義継/三好三人衆/松永久秀/武田信玄/近衛前久(信長に追われて石山本願寺に亡命中。ただし、義昭とも対立関係にあった)/六角義賢

アニメ戦国BASARAでは、信長包囲網の勢力としては、伊達軍・武田軍・上杉軍が核となっていましたが、当時の信長包囲網に上杉謙信は加わっていませんでした。

徳川軍に関しては、織田と同盟を組んで味方同士でしたから論外。
お館様は家康を説得するどころか、上洛の際にはシカトしようとしてましたからねw(後に、怒った家康が出陣して戦になりますが。←三方ヶ原の戦い

信長包囲網で鍵となった存在が、そのころ甲斐を平定した甲斐の虎こと武田信玄、そして浅井長政と朝倉義景です。
長政様の項でも触れましたが、浅井・朝倉連合軍を攻めていた織田信長を近江に足止めし、その隙に信玄が上洛してしまおう!という作戦。
軍を二分するより仕方がなく、信長が全力で阻止出来ない今こそ信玄の上洛のチャンス!だった訳です。

この作戦が成れば本当に歴史は変わっていたと思うのですが・・・信玄は、先述の三方ヶ原の戦い(1571年10月)で家康を破り急いで京都を目指したものの、朝倉軍の(ヘタレな理由による)撤退により信長は美濃に帰還(同年12月)。1572年3月には将軍・足利義昭が京都で挙兵しますが信長によって制圧され、4月には武田信玄が死去してしまいます。

この信長包囲網の中で最も信長が警戒していた武田信玄が死んだことにより、もはや残りのメンバーでは信長を抑えることなど不可能。
結局、信玄の死から一年ほどで、信長包囲網に参加していたほとんどの勢力が壊滅状態(もしくは滅亡)してしまい、将軍・足利義昭も京から追放されてしまったのでした。


信玄の死から3年後の1576年、信長の下から離反者が出たことなどをキッカケに、第二次信長包囲網が結成されます。

主な勢力は以下のとおり。

足利義昭/波多野秀治/山名祐豊/石山本願寺/毛利輝元(毛利元就の孫)/宇喜多直家/村上吉充(瀬戸内の村上水軍)/上杉謙信/松永久秀(第一次信長包囲網の後、信長に降伏するも再び離反)/雑賀衆/別所長治/荒木村重/武田勝頼(武田信玄の跡継ぎ)

信長包囲網の西側勢力、挙兵した本願寺は信長に敗戦してしまいますが、本願寺に兵糧を運び込むために進軍した毛利・小早川・村上の連合水軍は織田軍に大打撃を与え勝利。(第一次木津川口の戦い)
さらに東側勢力としては上杉謙信が手取川の戦い(1577年11月)にて、倍近くの戦力を有した柴田勝家率いる織田軍に大勝。

今回こそ魔王ピンチ!?という状況でしたが、1578年4月、今度は謙信様が急死してしまいます。

第二次信長包囲網において、信長にとって最も強敵だった上杉謙信が死んだことにより、今回も信長包囲網は急激に勢いが衰えてしまいました。

結果、1580年に本願寺が明け渡されたことで、信長包囲網は崩壊します。


野暮を言うようですが、当然の如く伊達軍は全く関係ありませんw
しかも武田軍と上杉軍が共闘したこともないという・・・アニメ戦国BASARAでの興奮シーンに水を差すような記事になってしまいました・・・。
posted by M at 19:51 | Comment(0) | 織田信長包囲網 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

浅井長政(浅井軍)

戦国BASARAの正義マン・浅井長政は、1545年に浅井家二代目当主・浅井久政の嫡男として生まれました。織田信長や武田信玄たちと同じ時代を生きた人なので、戦国BASARAの登場キャラクターとしては年長組の部類に入ります。


戦国BASARAでは、少々頭の悪い(ファンの方ごめんなさい。汗)熱血ヒーローという感じの長政ですが、実際の浅井長政は知勇に優れた青年で、まさに戦国のヒーローとして家臣たちに期待されて育ちました。

と言うのも、長政が生まれた当時、浅井家は敵対する六角氏に自らの領地を奪われ、その家臣と成り下がってしまっていました。

そんな情けない当時の浅井家当主・浅井久政(長政の父)に不満を持っていた家臣たちの後押しもあり、長政は父を追放し、強引に家督相続。「これ以上、貴様たちには従わん!」と六角氏を相手取って戦を起こします。(1560年、野良田の戦い)

当時、長政は若干15歳(!)でしたが、自らが戦の指揮を執って大勝利。
これにより、浅井家は六角家から独立し、近江で急成長して行きます。


と、ここで浅井長政マメ知識。

浅井長政の話には必ずと言って良いほどセットで登場するのが、お市の方。
この二人がラブラブだったのは有名な話ですが、実は長政様、お市の方と結婚する前にも奥さんを貰っています

六角家が「浅井家はウチの家臣!」とアピールするために、家臣のひとりである平井定武の娘と長政を結婚させたのです。
が、後に起こる六角氏とのバトルの際、長政様は、この娘さんを「離反の意思表示」として六角氏の元に送り返してしまいます。
なので、お市の方は後妻ではありますが側室ではありませんので、ご安心くださいw


さて。話を戻します。

六角氏の元から浅井家が独立した後、浅井長政は織田信長と同盟を結びます。

この同盟は信長から持ち掛けられたもので、条件的には浅井に有利なものでしたが、家臣たちは猛反発。
その理由は、浅井家が盟友とする朝倉義景が織田信長とメチャクチャ仲が悪かったため。

朝倉家と織田家は、幕府による政治を復活させたいと望む足利義昭を巡って絶賛バトル中。
朝倉親交派と独立派とで意見が分かれましたが、結局は長政様の意思により、浅井家と織田家との同盟が結ばれることとなります。

そのときの条件が「ウチと同盟するなら、朝倉とは戦わないでね!」ということでした。

まぁ、魔王のオッサンは、この約束を見事に簡単に破ってくれるわけですがw
長政様は信長の言葉を信じ、同盟を結んだのでした。


この織田・浅井同盟は、信長にとっては上洛のルート確保のため、長政にとっては織田家という強力な後ろ盾を得たことで他国への牽制が出来た、と双方にとってメリット満載でした。

が、事件が起きたのは1570年4月。

信長が長政との約束を破って、同盟中の徳川家康と共に朝倉を攻め始めます。

長政は信長の妹お市と結婚していたこともあり、織田と朝倉のどちらの味方をするか悩みますが、結局は「勝手に朝倉を攻めないって言ってたくせに裏切った織田が悪い!」という家臣の言葉もあり、朝倉側に付くことを決意。
織田・徳川軍を背後から急襲します。

信長から見れば「え、マジで!?」くらいの予想外の展開に、織田・徳川軍は、朝倉軍と浅井軍の挟み撃ちから必死の逃走。(金ヶ崎の戦い

6月に織田・徳川VS浅井・朝倉の全面戦争となる姉川の戦いが起こります。
形としては、織田VS浅井、徳川VS朝倉という感じ。

浅井軍の方は、磯野員昌の活躍もあり、当初は織田軍に敗走の準備までさせるほど追い詰めますが、足を引っ張ったのが朝倉軍(汗)

戦っていた徳川軍の3倍もの戦力を有しながら、榊原康政らの猛攻により敗走。
側面に位置していた朝倉軍が敗走してしまったため、浅井軍にも隙が生まれ、こちらも敗走を余儀なくされます。


この姉川の戦いの後、アニメ戦国BASARAでも登場した「信長包囲網」が結成されるのですが、これは別の機会に詳しく書きます(スミマセン。汗)


同年9月、朝倉軍や延暦寺、一向宗徒と手を組み織田攻めを再開します。
森可成(蘭丸の父)や織田信治(信長の弟)を討ち取りますが、翌1571年9月には浅井と協力関係にあった比叡山延暦寺が焼き討ちされ、壊滅してしまいます。

1572年7月、織田軍が5万の兵力を持って近江へ侵攻。
浅井・朝倉の連合軍と睨み合いになりますが、数では劣る連合軍。ピンチです。

そこに届いた一通の文!

甲斐の虎こと武田信玄が上洛のために進軍開始したとのこと。
信玄の進軍を阻止したい信長は美濃へ戻ろうとしますが、浅井・朝倉の連合軍は、それを阻止する役目を担うことになります。

信玄の上洛が叶えば、織田を潰す大チャンス!

ですが、ここでも足を引っ張ったのは朝倉軍。
12月には、兵の疲弊と降雪を理由に越前へと帰国しまったのです。

なんて自己中な!と信玄は大激怒しますが、朝倉は戻ってきません。
悠々と美濃へ引き返した信長とは逆に、進軍できない武田軍。

仕方なしに、信玄は朝倉の協力なしで徳川領の野田城を攻め落としますが、このときのストレスや疲労で信玄の持病が悪化。
ついには信玄が病死してしまい、武田軍は甲斐へ戻ることを余儀なくされます。

これにより信長包囲網は完全に破綻。
もはや敵なしの織田軍は、大軍を持って浅井・朝倉攻めを再開します。


1573年7月、押し寄せる織田軍の前に、再び朝倉に援軍を要請する浅井軍。
当然、要請に応えて出陣した朝倉義景です・・・が。
この人、どこまでヘタレなんでしょうか
織田軍が次々に城を落とし始めたのを見るや、さっさと撤退してしまいます。
逃げる朝倉軍を織田軍は追撃。朝倉軍は、ここに滅ぶことになります。(一乗谷城の戦い

朝倉の援護が無くなった浅井軍に、もはや打つ手なし。
ジワジワと追い詰められ、ついに本拠地である小谷城が織田軍に囲まれてしまいます。

滅ぼそうと思えば、いつでも滅ぼせる状態。
それでも、信長はすぐに小谷城を攻め落とそうとはせず、再三の降伏勧告を送ります。

さらには、あの非情な信長からは考えにくいのですが「降伏すれば大和に領地をやるから」とも言われるのですが、長政様の答えは「No」。
人タラシの木下(豊臣)秀吉が使者として行っても「No」!
結局、最終勧告も決裂し、1573年9月、浅井家は滅ぶことになるのでした。

浅井長政、享年29歳。若すぎです。

浅井家滅亡の際、長政様とラブラブだったお市の方は一緒に死ぬことを望むのですが、長政様に諭され、三人の娘と共に織田陣営へと逃れることになります。

この三人の娘が、茶々、初、江で、それぞれ数奇な運命を辿っていくことになります。
しかも、豊臣秀吉の側室として嫁いだ長女の茶々は世継ぎである秀頼を生み、三女の江は後の二代将軍・徳川秀忠に嫁ぐなど、浅井家は滅んでも、その血筋が天下を動かすという結果になったのは不思議なものです。

お市の方と子供たちが織田陣営に向かう際、浅井軍も織田軍も、一切の攻撃を止めて見守ったというのですから、どれだけ市が長政と信長に愛されていたかが分かりますね。


ちなみに有名な逸話として、信長が正月に設けた宴席で、長政・久政(長政の父)・朝倉義景の三者の首を漆塗りにして金箔を塗したモノを飾ったという話があります。
この話は信長公記という、かなり信憑性の高い資料にも記されているため実話だと思われます。
が「首を杯にして酒を飲んだ」という記載はないので、その真偽は定かではありません。
posted by M at 01:01 | Comment(0) | 浅井軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

武田信玄(武田軍)腐女子的余談w

武田信玄には高坂昌信という衆道(同性愛)相手がいました。

高坂昌信は、信玄と勝頼の二代に渡って仕えた武将ですが、武田軍には珍しく冷静沈着な性格の持ち主。しかも美形

高坂さんは信玄に拾われてから、異例の大出世をしていきますが、これも信玄の寵愛ゆえという噂があります。

さて。信玄公と高坂さんですが、イカツイ信玄のイメージからは想像も出来ないほどラブラブだったというか、尻に敷かれていたというか・・・w

信玄が尻に敷かれていた証拠(?)として、武田信玄から高坂昌信に宛てた書状が残されています。

この書状の内容が・・・「浮気してゴメン!」ですよw

信玄の浮気がバレて、高坂さんが激怒して機嫌損ねちゃったんで、慌てて手紙を書いたんだそうです。

お館様・・・しっかりしてくださいw

ちなみに、第4次川中島の戦い(1561年)で武田軍は上杉謙信が陣を張る妻女山へ別働隊を用いて奇襲をかけますが(この奇襲が戦国BASARAにも出てくる、有名な啄木鳥戦法です)このとき別働隊を任されたのが高坂昌信でした。

戦国BASARAでは別働隊を率いていたのは真田幸村になっているので、もしかしてBASARA的には真田幸村=高坂昌信という感じなのでしょうかw
posted by M at 05:54 | Comment(2) | 武田軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

武田信玄(武田軍)

甲斐の虎こと、武田信玄(武田晴信)は、1521年12月1日生まれ。
伊達政宗や真田幸村が1567年生まれなので、かなり年は離れていますが、それは戦国BASARAでは禁句ってコトでw
(他にも「年の話はしちゃイヤンv」な方も、たくさん出てきますのでw)

信玄の父であり、先代の武田家当主であった武田信虎の時代には、既に甲斐の国を統一していて、信玄は、その跡を継いだ形で、隣国である信濃や三河へと侵攻して行くことになります。


1542年には諏訪を支配下に治め、1550年には中信、1553年に東信も武田家の支配下に置かれ、信濃のほとんど(北信以外)を平定します。


戦国BASARAでは「義理人情に厚い人」というイメージで、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」 という言葉も残している武田信玄ですが、実際の信玄は細かくて、結構腹黒い上に容赦ない性格だったようです(汗)


▼信玄の容赦ないエピソード

1547年に小田井原の戦いで笠原清繁と、援軍にやってきた上杉憲政(上杉謙信の養父)の連合軍に苦戦しつつも約3000人を討ち取る大勝を収めた武田信玄は、討ち取った敵兵の首を笠原氏の居城・志賀城の周りに並べて脅しをかけます。

この脅しで志賀城に篭った兵たちは篭城を解かず、笠原清繁を始め城兵の多くが討ち死、さらに残った女子供と奉公の男を人質や奴隷にしてしまいます。

この過酷な処分に信濃国民は武田信玄に不信感を抱き、信玄の信濃平定が遅れる原因になったと言われています。

そもそも、信玄が武田家の当主になったのも実父を追放してのことですから、温厚なイメージを持たせる方が無理があるのかもしれません(汗)


▼信玄の腹黒エピソード

武田家は多くの国と同盟を結んでいましたが、実は結構な勢いで裏切っています。
(諏訪家、織田家、今川家、徳川家、北条家など)

織田に対してはヒドいもので、打倒織田信長のために将軍・足利義昭に呼びかけられて上洛を開始しつつ、その一方で織田信長に友好的な書状を送り続けるなど、かなりの腹黒さを見せ付けてくれます。
戦国BASARAで伊達政宗が信玄のことを「アンタも食えねぇオッサンだな」みたいなことを言いますが、まさにそのとおりです。

そんな信玄の性格は近隣諸国には有名だったようで、外交にはほとんど信用がなかったお館様。

そのとばっちりを食らったのが、跡取り息子の武田勝頼です。

信玄の遺言に従って、上杉と同盟を結ぼうとしたのですが「アンタんとこ、散々同盟裏切りまくってたけど、ホントに大丈夫なワケ?」とチクっとやられてしまいました。哀。


▼お館様、パクリでござる!

風林火山として良く知られる「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し)」という言葉には続きがあり、「難知如陰 動如雷霆(知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい=雷)の如し)」となります。

なので、正しくは風林火山陰雷となるのでしょうけれど、さすがに長いので省略したのかもしれませんねw
(実際に軍旗に書かれていた言葉は「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」なので、あまり省略されてない気もしますがw)

ちなみに、風林火山=武田信玄というイメージが強いですが、実は、この言葉は信玄が軍旗に用いる約200年前に、北畠顕家という人が陣旗として使っていました。


▼器がデカイのか小さいのか・・・

戦国BASARAでは、武田信玄の器の大きさに心酔しきっている真田幸村ですが、本当に器の大きな人物だったのかは、ちょっと疑問があります。

武田信玄の永遠のライバルといえば上杉謙信ですが、実は、武田信玄は上杉謙信のことを一度も「上杉」と呼ばなかったそうです。

と言うのも、武田家の肩書きは「甲斐守護職」なのに対して、長尾家(上杉謙信の前の名前)は「越後守護職」。
これが、長尾家が上杉家となると、越後守護代から関東管領となり、甲斐守護よりもエラくなってしまう訳です。
それが面白くなかった信玄は、最後まで長尾姓で呼び続けたと言います。

・・・いいのか、それで!?w


▼お茶目なお館様

武田軍兵士が休みの日には欠かさず現れるという武田道場には様々な仕掛けが施してありますが(戦国BASARA2英雄外伝より)武田信玄の住んでいた躑躅ヶ崎館にも、驚くべき仕掛けがありました。

それは・・・なんと水洗トイレ

館の裏から流れる水を利用した仕組みで、信玄が紐を引っ張ると鈴が鳴り、それが伝言ゲームのように続いていきます。
そして上流まで届くと、上から水を流されるというもの。

この仕組み=水洗トイレのことを、信玄は「山」と呼んでいたそうです。

「はて、何故、厠のことを山と呼ぶのでござるか?」
「それは、山には常に草木(臭き)が絶えぬからよ!」
「・・・・・・(親父ギャグかよっ)」

武田道場でのシーンのように、紐がブチっとならなかったことを願っています。


と、ここまで川中島の戦いについて全く触れていないのですが(このサイトでは人物紹介がメインなので。汗)
調べている途中で気付いたので、書いておきます。


アニメ戦国BASARAで伊達政宗と真田幸村が出逢ったのは、どうやら1564年に行なわれた第5次川中島の戦いの最中のようです。

史実でも、第5次川中島の戦いは武田信玄VS上杉謙信の最後の戦いとされ、両軍が睨み合ったまま衝突せずに終わっています。
その後、織田信長が今川義元を討つ桶狭間の戦い(1560年)が起きることも史実どおり。
さらに1569年には小田原城を包囲するなど、川中島→小田原という流れも(小田原城包囲と桶狭間が逆になってますが)史実に沿ってるわけですね。

ぶっ飛んだ設定の多い戦国BASARAですが、こういう細かなところで史実を持ってくるので、なかなか侮れませぬ。

(ただし、このときの北条家当主は例の「氏康様(氏政の父)」で、小田原城を包囲はしましたが、攻めることはしませんでした)


アニメではこの後、武田信玄が徳川家康を説得したり、織田信長が家康を裏切ったりで「反織田包囲網」を作り上げていくわけですが、実際はそう上手く行かず、武田軍は織田や徳川と対立して行きます。

そして1573年、かの有名な「ワシの死は3年隠せ」という遺言を残し、甲斐の虎こと武田信玄は亡くなります。

以前から病を患っていたようですが、1573年の2月頃から度々吐血するようになり、武田軍は進軍を止め、長篠城で療養するようになります。

それでも一向に信玄の容態が回復しないため、4月初旬には甲斐へと一時撤退することを決めますが、その道中、4月12日に、甲斐へと続く三河街道上で亡くなってしまいました。享年53歳。

死因は様々な説があるようですが、主なものとしては、肺結核、胃癌(もしくは食道癌)など、病死とされています。
都市伝説的な説では、織田信長によるヒ素毒殺という噂も・・・。


信玄の遺言からは少し早いですが、2年後の1575年4月に葬儀が行われました。
奇しくも、この直後(1575年6月)に長篠の戦いが起こり、織田・徳川の連合軍に大敗した武田家は滅亡への道を辿ることになります。

やはり3年待たずに葬儀を行なってしまった呪いでしょうか・・・(違っ)
posted by M at 05:02 | Comment(0) | 武田軍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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